激動の時代を生きた和宮さまの手には旅行線が出ていたかも!?

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和宮さま(Wikipediaより)

こんにちは。地に足をつけた鑑定がモットーの手相師ミセスKです。

今回は、激動の時代に波乱万丈な人生を歩んだ、和宮さまのお話です。

マンガ原作でドラマにもなった『JIN-仁-』の中でも和宮さまのお話が出てきましたよね。

和宮さまは1846年に生まれた日本のお姫様。父と母違いの兄が天皇という血筋で、京の都で生まれ育ちました。5歳という幼い頃から決められていた婚約者・有栖川宮熾仁親王に嫁ぐ日を夢見る少女だったようです。

しかし時は幕末。『公武合体』という政治的意図により、同い年となる徳川14代将軍家茂との結婚が無理矢理に決められます。

既に婚約者もいる身でもあり、ご本人さまは2度もお断りするのですが、問題が大きすぎて断るに断れず政略結婚へ。

15歳で江戸という、当時の京の都から見たら外国のような場所にある、まったく生活様式の違う武家のトップ、徳川家に嫁ぐことになります。

京から実母とお供の女性達も一緒について来てくれたとは言え、心細かったことでしょう。

しかも夫の養母である天璋院たちや江戸城の大奥の女性たちから苛めを受け……。そんな可哀そうな状況ではあったけれど、夫・家茂とは政略結婚ながら仲が良かったそうです。

当時、位の高い男性は正妻だけでなく側室を設ける習慣があったものの、家茂は和宮さま一筋で側室はおらず、家茂は時間があれば和宮さまと雑談し、お互いに何かとプレゼントを贈りあったりするような仲睦まじいご夫婦だったとか。

実は夫・家茂は和宮さまに対して優しいだけでなく、家臣からの人望を得ていた名君伝説を残す男性。あの勝海舟が生涯の忠誠を誓うほどの人物だったそう。

和宮さま自身が選んだ相手ではないけれど、性質の良い相手に嫁げたことは、彼女の運の良さだと言えるんじゃないでしょうか。

家茂が20才という若さで没したため、 結婚生活はたったの4年だけでしたが、和宮さまは 仲の悪かった 姑・天璋院と力を合わせ、徳川家存続に尽力したそうです。

文化の違う場所へ移動する人の旅行線

和宮さまのように、遠く離れた異なる文化の嫁ぎ先で自分を適応させる能力がある人の手には、旅行線が出ているはず。

旅行線

旅行線は、生命線の後半部分から月丘に向かって流れる線です。

名前どおり旅行に関する運を表しますが、それだけでなく、生まれ育った場所から遠く離れて暮らす運勢や、異文化交流、外国との関係の強さなどを表す線です。

京の都と江戸とでは言葉も違いますし、和宮さまご一行は約1か月をかけ京から江戸城に入ったので、交通の発達した今の日本人が地球の反対側にあるブラジルに行くよりも、遠くに感じられたんじゃないでしょうか。

しかも仲の悪かった義母・天璋院とも最終的には和解するほど、 異文化交流に柔軟な人。旅行線は確実に出ていたんじゃないでしょうか。

和宮さまは幸せだったのか?

和宮さまは32歳という若さでお亡くなりになりました。夫・家茂の死後、約11年。お子さんはありませんでした。

死後は夫の家茂のお墓の側に埋めて欲しいと言い残し、家茂や徳川家に対して良い印象を持って終わった人生だったのでしょう。

その後、お墓の移転時に中を確認したところ、和宮さまのお墓から若い男性の肖像写真が発見されました。彼女の人生は国の歴史そのものですから、歴史学者としては興味深々だったはずです。しかし翌日検証しようとしたところ、日光のために画像は失われ、写真の男性が誰なのか?は永遠の謎となってしまったのです。

あんなに仲の良いご夫婦だったのだから、家茂の写真に決まっている!という意見と、幼い頃の婚約者であった有栖川宮さまだったのでは?という意見があるようですが、もうこの世に、その答えを知る人は誰もいません。和宮さまの魂だけが知っている答え。

一つだけ確かだったのは和宮さまは最期の時まで、そのお写真を大切にされていた、ということだけなんですね。

和宮さま、永久にお幸せに。