こんにちは。地に足をつけた鑑定がモットーの手相師ミセスK @mrsk777 です。
今回はアドラー心理学を分かりやすく物語形式で紹介した『嫌われる勇気』のご紹介です。
『嫌われる勇気』が出版され、アドラーの知名度は飛躍的に向上し、日本でもフロイトやユングと並ぶ、心理学界の3巨匠の一人だと認識されるようになりました。
今回はアドラー心理学の「トラウマ」「劣等感とコンプレックス」「不幸自慢」の3つのお話を。
トラウマなんかに支配されないアドラー心理学
アドラー心理学がフロイト心理学と大きく違うのは、
トラウマの否定
です。
トラウマが人生を支配するのか?
フロイト心理学では、今のあなたが抱えている問題は過去に起こったトラウマが原因だと考えます。それに真っ向から反対したのがアドラーです。
トラウマによって人生が支配される訳じゃないのだと。
「親に愛情をもらえなかったから不幸なんだ」
「学歴ないから良い職につけないんだ」
そんなトラウマを抱えている人、いませんか?
もちろんトラウマは、その人の人生に影響与えます。親から愛情をもらえる方が、明るい人生を歩みやすいでしょうし、学歴あった方が仕事を探しやすいでしょう。
しかし、いまの不幸が過去のトラウマの仕業なら、その人は一生トラウマを抱え不幸な人生を歩み続けるのでしょうか? 自分を不幸にした親を一生恨んで生きていく以外ないのでしょうか?
もしもトラウマが、その人の人生にとって絶対的な地位を占めるなら、それは絶望するしかない話ですよね。
アドラー心理学的にみた不幸な私という楽な道
たとえば、
親が悪いから社会に溶け込めず引き籠っているなど、自分が不幸なのは××のせいなんだ!とトラウマを嘆いているのは
アドラー心理学では「引き籠りたいから社会や両親を言い訳に使っている」と解釈します。
ちょっと待って! 好きで引き籠りたい人なんていないんじゃない?って声が聞こえてきそうですが……。
いろいろ不満はあったとしても「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです。
人間って弱い生き物。なかなか自分の弱さを受け入れられず、自分の状況を楽観的に見過ぎたり、逆に必要以上に自己否定してみたり。
本当の自分の姿を目の当たりにし、その弱さを思い知らされたり、変わる努力をするよりも、自己憐憫にひたって悲劇のヒロイン/ヒーローになっている方が楽だから、本当の自分に向き合うことから無意識に逃げる人って少なくない、ですよね。
そんな自己憐憫にひたっている人たちは「幸せになる勇気が足りていない」
というのがアドラーの見解。
口先では幸せになりたいと言っても、トラウマを盾に不幸の中から出て来ないのは、幸せになる勇気がない、と考えるのがアドラー心理学。
これ、痛いほど判るわ~。
手相師の私はいろんな人の悩み事を伺って、アドラー心理学が理解できるようになりました。
幸せって棚から牡丹餅のように天から降って来るものじゃありません。自分の悪い状況を変えようと決意し、勇気をもって行動した人は、たとえ大きなトラウマを抱えていても、いつの間にか幸せになっていきます。
幸せになった方は才能があったわけでも、生まれ育ちに恵まれていたわけでも、ただただ幸運だったわけでもありません。ただ生きるために前に歩み出たのです。
そうやってトラウマを乗り越えた人たちって本当にカッコいいし、尊敬しちゃいます。
劣等感をもつのは良いことなんだね
劣等感と劣等コンプレックスって、日本語にすると同じようなイメージがありますが、アドラー心理学では分けて考えます。
劣等感とは
劣等感とは、理想の自分に達していない自分を劣っていると感じる感覚
また失敗。私って駄目だ。どうして私はコレくらいできないのかしら???と自分の未熟さを残念に感じること。
その「まだまだ自分は未熟だ」という気持ちから、「もっと上達したい」と向上心が引き出せたら、それは成長に必要な感情なので歓迎すべきもの。
劣等感が健全な方向に向かうと、人を成長させてくれる原動力になります。
ですから劣等感を持たずして、人は成長できないと言っても過言じゃありません。
劣等コンプレックスと優越コンプレックス
劣等感は必要不可欠な要素ですが、中には劣等感の重みに耐えきれず、偽りの優越感を演出する優越コンプレックスへと移行していく人がいます。
劣等コンプレックスとは、劣等感をネガティブに受け止め、できない理由づけをすることで自分の成長を止めてしまうもの。
劣等感に対し、「どうせ私なんて、能力ある人には負けてしまうわ」とネガティブに諦めてしまうのが劣等コンプレックスです。
優越コンプレックスとは、自分の臭い部分にフタをし、できない自分を見ようとせず、まるで自分は偉いできる人間かのように思い込み振る舞うこと。本書では「偽りの優越感」と書かれています。
劣等感をコンプレックスにしないために
劣等感を良い方向に使うためには、自分はまだまだだと、等身大の自分を見つめる勇気が必要。それは「今はまだまだだけど頑張れば成長できるはずだ」という自己肯定感とも関わってくるかもしれませんね。
逆に言えば自己肯定感が低いからコンプレックスになってしまう。
でもね、ほとんどの人が何かしらの劣等感を持っているはずなんですよ。手相鑑定をやってると、他人から見たら完璧な人からご相談があったりするので、劣等感をどう扱うかで人生が左右されるんだなーと、つくづく思うのです。
自分の弱さを見つめることは痛い行為ですが、今、痛みを引き受けることで良き未来を手にするか、目を反らして残念な人になるか、どちらを選ぶのかは本人次第です。
不幸自慢をする人
不幸自慢は、優越コンプレックスの変形バージョンです。
つまり、
自分の不幸な状況を自覚しているのに、解決の努力はせず、不幸という特別な自分を演出し、周りから腫れ物扱いしてもらおうとすること。
と言えます。
私事になりますが、これまで何人か不幸自慢をする人と関わってきました。若い頃は「まあ可愛そう。大丈夫?元気出して!私にできることがあれば協力するからね♪」という対応をしてきましたが、経験を重ねるうち距離を置くことにしました。
理由は二つ、
不幸自慢の人とつき合うと自分が辛くなるから。そして、私が話を合わせることで相手の成長を止めてしまうと気づいたからです。
腫れ物扱いを受けている人には、なぜか不幸が次から次へとやってきます。でもそれは、不運な運命だからではありません。
周りが自分を大切に扱ってくれるよう自分が不幸である人生を選び続けるからです。
小さな問題も重箱の隅をつつくかのように、大きな困難が来たと受け取り、不幸な自分を演出しちゃうから。
与えられた環境でどう生きるか
人間はみな平等という言葉があるけれど、実際は生まれながらの格差はあるし、みな等しくはない、ですよね。
私より恵まれた環境の人もいれば、逆に私より大変厳しい状況の人もいます。
私自身、日本で生まれ育ち親兄弟は健在で、海外で結婚し子宝にも恵まれ、生活できるだけの最低限度の収入は手に入れているので不幸ではないと思いますが、以前、自宅が被災した時は「可愛そうな人」扱いして頂きました。
被災しても本人は、悲惨な気分ではなかったのですが。
ボロ屋に住んでいることも、一時期は気にしてましたが、それ以上に家族仲良く慎ましく生きていることに誇りを感じたので、今ではボロ屋も気にならなくなりました。
大切なのは、何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。
というアドラー心理学の考え方が私は大好きです。
宿命は変えられないけれど、運命は変えられる。
鼻が低いとか足が短いとか、学歴が低いとか毒親育ちとか、自分の欠点を数え嘆くよりも、いま自分が手にしている中で、いかに良い人生を進んでいくか? 人と比べず自分基準で物事を見れば、今より幸せになれるかも!